
「もういいでしょう。一杯飲ませてくれませんか」山上がめずらしくアルコールをリクエストした。「さすがに疲れた…現場で悪党を追いかけ回してるほうがよっぽど楽だ」
「何にいたしましょう?刑事さん」テンシュが労(ねぎら)いの気持ちを込め、バーテンのように応じる。「ギムレットはいかがです?甘くないヤツを作りましょうか」
「ギムレットか…」意外にも、山上はレイモンド・チャンドラーの探偵小説のお約束を知っていた。「フィリップ・マーローですね?」
「“タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない”」高野が補足する。「…でしたっけ?」
「でもその台詞、オレなんかより今宵は諏訪季一郎に捧げたい気がするよ」
「さて、お疲れのところ大変恐縮ですが…」AZが山上に言った。
「なんだ?まだ知りたいことがあるのか?」刑事は肩をすくめた。
「はい、これを訊かないことには眠れません」AZがおもむろに訊ねた。「保さんが現場に持っていった身代金の500万円は、いったいどこに消えてしまったんでしょう?」
「プッ…!」刑事が口先に含んだばかりの透明な液体を噴き出した。「やっぱり知りたいか」
「当然でしょう」
「さすがのオレも、諏訪季一郎に訊いたよ…」山上は一旦言いかけて、口ごもる。「ねえ、どうしても知りたい?」
「もったいつけずに、教えてくださいってば!」
「ああ、オレの退職後の夢が消えていく…」
「え?まさか…冗談はやめてくださいよ」AZが言った。「Dの29番にまだ埋まったままとか?!」
「さあ。季一郎も正確には答えなかったんだ」
「ジラさないで!」
「彼はポツリとヒントを語った」
「なんて?!」
「契約は、まだ続いているって…」
「け、契約?別荘地と時計の売買を制限する、例の契約のことですか?」
「そうさ」
「今のところの最後の取引は、つい先日履行された…」AZが頭のノートを開き、再確認する。「“諏訪季一郎にしか別荘地を売らない”という先代から受け継いだ契約に従い、富沢正吾が彼にDの29番を売却しました。それですべて終わったんじゃないんですか?」
「なんと、まだ履行されていない付帯条項があったんだ」山上が仰々しく言った。「諏訪季一郎は、例の“置時計”を現在の所有者である富沢正吾が“売る場合の制限”を規定していた」
「なんですって!?」
「“ある人以外には、あの時計を売ってはならない”とね」
「ある人ってまさか…!」
「そのまさかだ。あの時計は、坂東和江さんにしか売れないようになってるのさ。和江さんは、あの時計を買いたくなったらいつでも買う権利を持っているんだ」山上は、念のため一言付け足す。「もっとも、本人はそんな契約があるなんてまだ知らないけどね」
「いくらで?」
「いくらでも。和江さんの好きな値段でさ」山上は言った。
「おばさんが時計を買う?なんのために?」深田アオイが目を丸くして訊ねた。
「いいかい、500万円の札束なんて、嵩(かさ)にしたらたったの700cc、牛乳瓶3本分だ。空間をどう使うかが専門の時計師なら、“どこにだって” 隠せると思わないか?」
「そういうことか…」AZが言った。
「事件のあった翌週、季一郎は博物館に行ったそうだ。“時計の調整”にな…」山上は言った。「これ以上、オレに何も言わせるなよ」
「オレ、明日那須まで時計を見に行きたくなってきた…」高野が言った。
「オレも行きますっす」雄太が手を挙げる。
「コラコラ…」苦笑いの山上がギムレットを飲み干した。
8月25日、坂東和江は無事に退院して自宅療養の段階にまで回復していた。
その頃には、和江の心にずっと燻っていた事件の傷跡も、切除した病巣ととも徐々に小さくなり、癒されていくのを感じられるまでになっていた。
もう一人の事件の当事者諏訪季一郎は、まだ本郷の旅館に滞在しながら、日本に生きた自分の痕跡の全てを整理し、完全にスイスに移り住む準備を進めていた。
ある日の午後、季一郎の携帯電話に片岡弁護士から連絡が入る。
「もしもし、室伏京輔君がキミにどうしても面会したいそうだ」
「なんだって…?」季一郎は戸惑いを隠せない。「あの子は全てを知ったんだろうか?」
「ああ。でも彼はもう子供じゃない。そんなにヤワじゃないさ」白髪のエジソンは言った。「四十九日の法要を“父子”二人だけでやりたいそうだ」
「志都子の納骨をしようというのか…?」
「法的な手続きは、オレが抜かりなく全てやる」弁護士は言った。「9月14日の日曜日、別荘地でお前とどうしても対面したいそうだ」
「あの別荘地で?」
まだ夏の名残の残る、高原の晴れた午後。
幸せの郷D区29番別荘地で、“親子”は初めて言葉を交わした。
「ほ、本当に苦労をかけて悪かったな…」
「なにを言っているんですか!」京輔は父を見て何度も首を横に振った。「本当に、本当に助けてくれてありがとう…!」
父子は山桜の根元で、固く手を握り合っていた。
「気が済むまで話すがいい…」
二人だけの気が遠くなるほど長い会話を、遠くから片岡弁護士が眺め続ける。
――ザ、ザザー…。
心地いい秋風が、川音を連れてきた。
背の高い若者が、年老いた野武士のような老人に白い封筒を手渡したのが見える。
季一郎が風にたなびく便箋を凝視してから、がくりと膝をつき泣き出した。
若者がその肩を抱き、二人の影は一つになったままゆらゆらと揺れ続けた。
気が済むまで泣くと、京輔が鞄の中からフェルト地で出来た赤い小箱を取り出す。
二人はそっと中のものを見て手を合わせた。
次の瞬間…。
山桜の根元に箱の中のものがサーッと撒かれ、辺りに季節外れの花吹雪を作った。
「さようなら…。ありがとう」
花びらに呼びかける親子の声が、片岡の耳に小さく聴こえた。
「京輔、オレは明後日スイスに戻るよ」季一郎は言った。「もう、日本には帰らないつもりだ」
京輔は何も語らずに、父を見る。
「お前にこれを持っていて欲しい」
そう言うと、季一郎は左腕のロンジンを外し京輔に手渡した。
「ロンジンの13ZNフライバック。“もう一人の父親”が、お前を守るために地中でずっとはめていた時計と一対になるものだ」
京輔は、声も無く泣き出した。
「親子の証として、これをはめていてくれ…」
永遠に続く滝の音が、哀しく別荘地に響いていた。
小説「タイムキラー」 <完>

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